LOGINイーシュ・エルフェンは、十一の年まで、多少の不幸はあれど、平凡の範疇に収まる生活を送っていた。
幼いころ、イーシュは祖父を訪ねて行った先の王都ルランテで、馬車の事故に巻き込まれ、両親を亡くした。両親に守られて、彼と彼の姉ユーフェは無事だったが、親を失った二人は当時料理人をしていた祖父グウィンに引き取られることとなった。息子夫婦の葬儀が一通り済んだ後、グウィンはその腕を惜しまれながらも料理人を辞めることとなり、幼い孫二人を連れ、王都近郊のフィエロ村へと移り住み、宿屋を始めた。イーシュは当時の顛末について、祖父からそう聞いている。 宿屋の朝は早い。子供ながらに低血圧で朝が弱いイーシュは、日も昇らぬうちから二つ上の姉に叩き起こされる。 「イーシュ! いつまで寝てるの! 朝よ! 起きなさい!」 「うぅ……」 早朝から元気すぎる姉ユーフェとは対照的に、イーシュは弱々しく呻く。彼は半分閉じたままの視界に、勝ち気そうな苔色の目の少女の姿が映り込んでいるのを認めると、掛け布団を引き上げ、頭からすっぽり被る。すかさず、布団越しにユーフェの拳が頭に飛んでくる。 「何なの……姉さん……」 「何なのじゃないわよ、とっとと起きなさいって言ってるの!」 ユーフェは容赦なく、弟の布団を引っ剥がした。勢いでイーシュは寝台から転がり落ち、強かに腰を打った。 「痛……」 のっそりと涙目で身を起こしながら、イーシュはユーフェを見やる。彼女は全く意に介したふうもなく、 「やーっと起きたわね。さっさと起きて下にいらっしゃい。昨日みたいに洗面台のところで行き倒れてたらただじゃおかないんだからね」 「がんばる……」 言いたいことを言いたいだけ言って部屋から出て行く姉の背中を見送りながら、イーシュは欠伸を噛み殺す。ベッドサイドに置いた着替えに手を伸ばし、もそもそと着替えを始める。 冬が近いからか今朝は一段と冷えるなとまだ靄のかかった思考の隅で感じながら、瞳の色と同じダークブラウンのボタンダウンのシャツの上からアイボリーのモヘアニットを重ねる。着替えを済ませると、意識をまだ半分近く夢の世界に残したまま、ふらふらと部屋を出た。 廊下の突き当たりにある黄ばんだ共用の洗面台で、バシャバシャと顔を洗っていると、水の冷たさでだんだんと意識がはっきりとしてくる。洗顔ついでに姉と同じ色の寝乱れた髪を水をつけて引っ張り、申し訳程度に整える。惰性で歯を磨きながら、ぼんやりと水垢で薄汚れた鏡を眺めると、どことなくぼさっと感が否めない眠そうな十歳を少し越えた少年がこちらを見返していた。 一応の身支度を済ませると、イーシュは宿泊客を起こさないように足音を忍ばせて一階へと下りる。一階の食堂スペースと三階の居住空間に挟まれたフロアに客室が配置されている構造となっているため、朝晩は物音に気を配る必要がある。 「イーシュ、遅い!」 おはよう、と言う間もなくユーフェの高い声と黒いエプロンが顔面に飛んでくる。早く食べてしまいなさい、と祖父のグウィンが厨房から顔を出し、湯気の立つ椀と匙を手渡してくれた。 イーシュは行儀悪くその場に立ったまま、いい匂いのするそれに口をつけた。今日は優しくほっこりとする味わいのミルク粥だ。身体の芯へとじんわりと暖かさが広がっていく。 イーシュは粥を平らげると、厨房に立つ祖父へ食器を返して、姉に投げつけられたエプロンを身に纏った。 じきに宿泊客が起きてくる時間だ。ユーフェが食堂で朝食の給仕をしている間、各客室の清掃をするのがイーシュの朝の仕事である。 これがイーシュにとって、いつも通りの一日の始まりであり、こんな日々がいつまでも続いていくのだと、このころは信じていた。水の入ったブリキのバケツを足元に置くと、イーシュは出窓を開けた。二階の一番奥にあるこの客室は、東側に大きな出窓があり、朝日がよく入る。朝日と共に室内に入り込んできた清冽な空気が喉をひりつかせる。
イーシュは寝台から寝乱れたコットン生地のシーツを引っ剥がすと、ぞんざいに丸めて、清掃の邪魔にならないように寝台の隅へと置いた。床に置いておいたハタキを手に取ると、室内の調度品からほぼ溜まっていない埃を落とす。ハタキ掛けを終わらせると、毎日やっているのでやはりあまり溜まっていない床の塵を箒で掃き集める。 仕上げに床を濡れた雑巾で拭き清めるのだが、冷え込む今の季節には少し辛い。一階で汲んできたバケツの水は、冬場は殊更に冷たい。バケツの中に沈んだ布を絞る手指は真っ赤になって、少しひりひりする。毎朝のことながら、溜息を吐きたい気分に駆られながら、イーシュは機械的に雑巾に添えた手を動かしていく。床だけでなく、出窓やテーブルまでしっかりと拭き上げると、バケツの中に薄汚れた雑巾を突っ込む。バケツと清掃用具を左手に、右脇に寝台の上に放っておいたシーツを抱えると、イーシュは部屋を出る。危なげない足取りで階段を降りていくと、宿泊客たちの朝食が終わった後の食堂で後片付けをするべく、三編みにした灰色の髪を揺らしながら、てきぱきとユーフェが動き回っていた。 「イーシュ、終わったの?」 「うん」 ユーフェの問いに、階段裏の洗濯物の籠に回収したシーツを放り込みながらイーシュは頷く。 「それじゃ、次、食堂のモップ掛けよろしく」 「はーい」 ユーフェは厨房の隅に立て掛けてあるモップを顎でしゃくって指し示す。イーシュは間延びした返事を姉に返しながら、清掃用具を抱えたまま、ドアを肩口で押して開き、勝手口を出ていく。「返事は短く!」背後からユーフェの小言が追いかけてきたが、聞こえなかったことにした。 イーシュは適当にその辺りにバケツの汚水を捨てると、宿の裏手にある納屋に清掃用具一式をぞんざいに放り込んだ。ユーフェに命じられた仕事に戻ろうと、踵を返すと、足元でざくざくという音がした。イーシュが地面に視線を下ろすと、白い霜柱が下りていた。そういえば、今朝は吐く息も白い。 (本格的に冬が来る前に去年の上着を探しておかないとな……) 姉さんならどこにしまったか覚えているかな、と他力本願かつ追加で小言を浴びせられそうなことを考えながら、イーシュは何とはなしに朝の空を見上げる。 だんだんと冬じみてきた寒さで澄み切った青い空は、どこまでも高く広がっていて、今日も美しかった。木枯らしに吹かれて、色づいた木の葉がどこまでも高く青い秋の空に舞っていた。 イーシュは目の前に広がる記憶のままの風景に足を止める。紐で無造作に束ねた灰色の髪とグレンチェックのチェスターコートの裾が冷たい風で揺れる。 五年前の冬、リスルによって一命を取り留めたイーシュは、雪が溶け、花の蕾が綻び始める季節まで、この村に滞在していた。その間に、命を落としたリスルの葬儀を済ませ、村の復興作業へと彼は携わった。 それからというもの、イーシュはどうしてもこの村――ヴェレーンには足が向かないまま、国内を転々としていた。あの日、この村が山火事に巻き込まれたという負い目が彼の足をこの村から遠のかせた。 たまに立ち寄った町で日雇いの仕事をしては小銭を稼ぎ、その日暮らしを続けているうち、背も伸び、顔立ちも大人びて、イーシュは青年といっていい年になっていた。しかし、これから年を重ねて、あのころのリスルの年を追い越したとしても、到底彼女に追いつけるとも、彼女のようになれるとも思えなかった。 イーシュはキャメルのボストンバッグを持ち直すと、歩き始めた。時期が終わりに近づいてきた金木犀が風に乗ってふんわりと香ってくる。 すっかりあのころと変わらぬ景色を取り戻した村の中を懐かしさと鈍い胸の痛みを感じながら歩くうち、イーシュは比較的大きな一軒の家の前へと来ていた。以前、彼がこの村に滞在していたころ、一時期身を寄せていた村長の家だった。庭先ではまだ少し時期が早いはずの花の蕾が綻び、甘やかだけれどほんのりとスモーキーな色を覗かせていた。その花を見るとどうしても、もうこの世にはいない女性のことを思い起こしてしまい、イーシュは少し苦しくなる。 イーシュは扉をノックしようとして、躊躇った。悴んだ手が行き場をなくして彷徨う。 あの翌年の春に、自分の中でいろいろなことに半ば無理矢理区切りをつけてこの村を発つときに、いつでもまた訪ねてきてほしいとは言われてはいた。けれど、イーシュはそんな社交辞令を鵜呑みにして、招かれざる客が何をしにまたこの村を訪れたのかと、この家に住まう人々の表情が歪むのを見たくはなかった。 「あら、あなた、どこかで……?」 背後から年老いた女性に声をかけられ、イーシュは振り返る。草花をあしらった深緑のショールを肩に纏った小柄な老女が口元を押さえてこちらを
街道を馬車が走っていた。西へと続くこの街道の先には、宗教都市レシェールがある。 灰色の空からこぼれ落ちてくる花の霙を窓越しに何とはなしにスフェルが眺めていると、彼の向かい側に座るセイランが声をかける。 「スフェル殿下、もうすぐレシェールに着きます。しかし、本当によろしかったのですか? 王族ともあろう殿下の供が私一人で。このように少人数での視察など……有り体にいえば教会関係者にナメてかかられます」 「そう言うから、お前を連れてきたし、馬車での旅にすることを了承したではないか。本来なら、私が単身、オリーブで訪問すれば事足りることだというのに」 己の従者の諫言に、スフェルは嘆息まじりにそう返す。セイランは溜め息をつきたいのはこっちだと胸中で思いながら、 「殿下はあまりにも王族の威厳や形式というものを軽んじすぎです。こうした少人数での電撃訪問で教会側の意表を突き、取り繕う暇を与えないようにするという殿下の意図はわからないわけではないですが……。ですが、せめて身の回りの世話をする侍女の一人くらいはお連れください」 「子供ではないのだから身の回りのことくらい、自分でできる。それに、私にはお前がいるのだから、何も問題はないだろう? 私の側には信頼できる者だけがいればそれでいい」 「でしたら、いい加減エミルを殿下の侍女として召し抱えられたらいかがです? 彼女であれば、書類上は我が家の末席に連なる身分ですから、誰にとやかく言われる心配もありませんし、何より殿下を裏切ることは絶対にありませんから」 スフェルは窓の外の空と同じように表情を曇らせる。ヘーゼルの双眸に物憂げな色を浮かべると、 「私の都合で、あの子の人生をこれ以上掻き乱すことがあってはならないだろう。あの子は窮屈な城よりも市井で穏やかに生きるべきだし、今回のような視察に同行させればあの子の身が危険に晒されかねない。それに、一度あの子には私のそばで働くことを断られているから、しつこく誘うつもりはない」 「要はエミルに嫌われたくないというだけの女々しい理由でしょうに……まったく、殿下は年ごろの娘に嫌われたくない父親か何かですか?」 「……そういうつもりはないのだが」 「常々申し上げておりますが、殿下はエミルに入れ込み過ぎです。それに、以前に殿下がエミルに城で働くように勧めたのは出会って間もないころ
炎の波の中で壁が建物の焼け残った骨組みが黒々とその姿を浮かび上がらせていた。瓦礫が赤い光をちらつかせながら地面に折り重なっている。その様はさながら廃墟のようで不気味さを感じさせた。 イーシュは逃げ遅れた人がいないか確認しながら、崩れかけた建物を周っていた。まとわりついてくる空気が熱い。喉の粘膜を焼かれないようにイーシュは外套の袖口で鼻と口を覆う。 いつ崩れてくるともしれない、瓦礫と化した建物の残骸をイーシュは慎重に調べていく。先程も、柱を失った家の梁が落下してきて、消火活動の指揮を取っていた村長が頭を負傷し、運ばれていったのを見た。 近くから誰かの呻き声を聞いた気がして、イーシュは辺りを見回した。積み重なって倒れた家の柱の下から赤く焼け爛れた小さな人の手がのぞいていた。 「大丈夫ですか!」 イーシュは轟々と炎を上げる建物へと駆け寄り、柱の木材を押し上げようとした。焼けて炭になり始めているとはいえ、成長途中の少年が動かすにはそれは重過ぎた。べろりと手のひらの皮膚が剥ける。 小さく切れば動かすことができるかもしれないと、イーシュは思った。何かを切るにはお誂え向きの力が自分にはある。問題は自分がそれを一人で制御しきれるかどうかだった。 しかし、迷っているだけの余裕はない。イーシュ一人でもどうにか力を使いこなすしかなかった。失敗して力を暴走させてしまったらだとか、間違って下にいる人ごと切ってしまったらなどと躊躇してはいられなかった。 イーシュは目を閉じ、腹に力を込めた。意識を集中させ、鋼でできた花を思い描く。幸い、先程のロイゼン山での感覚はまだ覚えている。 体の中を背骨に沿ってせり上がってくる力の感覚を右腕へと誘導する。イーシュは琥珀色に光る目を見開くと、わずかに力を解放し、指先に鈍色の花を咲かせた。 イーシュは、鋼の花びらを太い木材にあてがい、慎重に切っていく。 額に汗が滲んだ。集中力が途切れれば、切ってはいけないものまで切ってしまいそうだった。 気道を焼かれたのか、喉がひどく痛かった。しかし、イーシュは手を動かすことをやめない。煙にやられて目も痛かった。しかし、今はそんな些事に構ってはいられない。 木材を小さく切り終え、イーシュは解放していた力を自らの中へ収めた。双眸が元の焦茶色へと戻っていく。 能力の行使で疲弊
煤と泥にまみれた二人がヴェレーンに戻ると、村はめらめらと揺らめく炎に包まれていた。夜と朝の狭間の色に染まった空とは対照的な色に照らされて浮かび上がる景色は、二人が覚えている平和な村からは遠くかけ離れていた。 記憶の中のトラウマを想起して、リスルは慄然として一瞬その場で立ちすくんだ。 「炎が……」 リスルは口の中でそう呟いた。自分が引き起こしたということが共通している目の前の事態は、全てを失った娘時代の晩夏の夜を連想するのには充分すぎた。 ほんの一度、季節が移ろうだけの短い間だったとはいえ、身を寄せ、世話になったこの村をリスルは故郷の二の舞にはしたくなかった。 しかし、長年使い続けた《レーヴェン・スルス》の影響を受けて弱りきっている上に、疲労で万全には程遠い今の体調では《ヴィサス・ヴァルテン》の力を使って消火を試みるのは危険だった。先程、ロイゼン山で力を扱い切れずに暴走させてしまっている以上、ここでまた同じことが起きないとも限らない。焦る気持ちを押さえようとしながら、リスルは何かできることはないかと考え続ける。 「……神父様」 リスルの様子を何もいえないまま気遣わしげに見ていたイーシュは人の気配を感じて振り返る。煤けた法衣に身を包んだ人の良さそうなその人は、イーシュ君と彼の名を呼ぶと、苦い笑みを浮かべる。 「こうなるような気はしていましたが……どうして戻ってきてしまったのですか。先程、忠告はしたはずですよ」 「だって……わたしのせいですから。わたしがもっとしっかり力を扱えていればこんなことには……」 蚊の中ような声でリスルは答え、俯いた。茶色い巻毛が彼女の横顔に浮かんだ表情を隠した。 どういうことですか、とレイモンはイーシュに目配せした。イーシュは泥にまみれたブーツの先で背伸びをして、レイモンへと耳打ちした。 「さっき、リスルさんが山で力を使って山火事の状況を探ろうとしたときに力を暴発させてしまって……。どうにも異能の影響で体調がよくないみたいで、力を扱い切れなかったみたいなんです。それで、そのときに発生した強風で村の方に炎が流されてしまって……」 なるほど、話はわかりましたとレイモンは頷いた。そして、彼は身を屈めて俯くリスルと目線の高さを合わせると穏やかにいう。 「シスター・リスル。あなたがすべてを背負い込む必要はあり
先を行くリスルに追いついたイーシュは、彼女と共に雪の積もった山道を歩いていた。辺りには煙が立ち込めていて、すぐそばにいるはずのリスルの姿さえも見失ってしまいそうなほどに視界が悪い。煙が目に染みて痛い。 リスルは辺りを探るようにしながら、慎重に歩みを進めていた。彼女は記憶の中の地図の情報を引っ張り出して、 「もう少し北寄りに進めば、崖になっていたはず。作業をするなら、たぶんそっちのほうがいいわね。元々燃えるものが少ないから、作業量を抑えられるわ」 方角すら怪しい中、二人はブーツの底で雪を踏みしめながら歩く。今の状況では、すぐにうっかり獣道へ迷い込んでしまう。 ふいにイーシュは体勢を崩し、足元を滑らせた。それまで立っていた場所の雪が崩れ、下へと落ちていく。咄嗟に持っていたシャベルを地面に突き立てたが、体重に耐えられずに傾いでいく。 「あっ」 声を上げたイーシュへとリスルの手が伸びてきて、腕を掴んだ。 「イーシュ、大丈夫?」 そういって引き上げてくれたリスルの腕は若い女性のものらしく華奢だった。イーシュは己を情けなく思いつつも、その腕に縋りながら這い上がる。 「ごめんなさい、わたしのミスね。思ってたよりもだいぶ進んでいたみたい」 「いえ……俺も注意不足だったので……。 ところで、ここが崖になっているってことはリスルさんが目指してたのはここですか?」 「そうみたいね。イーシュ、大丈夫そうなら、その辺りからずっと一直線に地面を掘って、溝を作ってくれる? わたしはこの辺りの木を切り倒すわ」 足元には気をつけてね、とイーシュへ注意を促すと、リスルは持ってきた斧の柄を両手で握り、振り上げようとする。しかし、気迫だけはそれっぽい感じを漂わせているが、姿勢がおかしいのかどことなく腰が引けている。生い茂る木々はどれも太く高かった。イーシュは何回目になるかわからないが、あまりにも無謀なことをしようとしていると思いが脳裏をよぎり、つい口を挟んでしまう。 「あの……リスルさん、斧を使ったことは……?」 「昔、教会の追手から逃げるときに投げつけてやったことならあるけれど……本来の使い方をしたことはないわね。それでもまあ、どうにかするわ。どうにかするしかないんだもの」 「無謀です……」 イーシュは半眼でリスルを見やりつつ、嘆息した。妙に気迫だけ
リスルとイーシュが湖畔の風車小屋に逃れてから三日が過ぎた。 肩から毛布を被り、椅子で眠っていたリスルは、明け方、イーシュによって揺り起こされた。 「リスルさん、起きてください。外が大変なことに……」 「ん……ふぁ……どうしたの、イーシュ」 眠い目を擦り、欠伸を噛み殺した間延びした声でリスルが応えると、イーシュは血相を変えて畳みかけた。 「外を見ればわかります! 山が燃えて……!」 山が燃えている。その言葉に反応して、リスルは完全に覚醒した。彼女は両頬を叩き、真顔になると立ち上がる。被っていた毛布を床に脱ぎ捨てると、彼女はイーシュに引っ張られるようにして小屋の外へ出た。 まだ夜の気配が色濃く残る暁の空の下、ヴェレーン村の向こう側にあるロイゼン山が赤く燃えていた。少女時代のトラウマを刺激され、リスルは口元を押さえて立ちすくむ。何とか絞り出した声も意味のない音にとなり、白い吐息と共に空気中へ霧散していく。 「な……」 山火事が起きていた。風向きが悪く、ヴェレーンへと炎が降りてくるのも時間の問題だった。 これに関われば自分はきっと、生きて朝日を見ることはないだろう。何となくそんな予感がした。 けれど、これは自分たちが招いた結果だ。リスルは我が身可愛さにこのままこの地を離れることなどできなかった。 「ロイゼン山へ行くわ。イーシュはここにいて」 ロイゼン山のある南西の方角へ走り出そうとするリスルをイーシュはその腕を掴んで止める。 「やめてください、危ないです。そもそも行って何をするつもりなんですか」 「わたしにできることをするの。《ヴィサス・ヴァルテン》の力をもってすれば、直接的な鎮火はできなくても、燃え広がる方向を変えることくらいはできるわ。緩衝帯を用意してそっちに炎を誘導してやれば……」 リスルは一人で木を切り倒して燃えるものを無くし、地面を掘って溝をつくることで延焼を食い止めるつもりだった。リスルがそれをイーシュに話すと、彼は首を大きく横に振った。 「無理ですよ! リスルさん一人でできることじゃないですよ! いくら異能があるっていったって、それ以外はリスルさんは普通の女の人じゃないですか! 無謀です!」 「無理でも無謀でもやらなきゃいけないの。これ以上、あの村に迷惑はかけられないもの。 イーシュ、気付いている?